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来日したD・K氏のスケジュールとケア。 [硫黄島]

conv0006.jpg硫黄島の日米合同慰霊祭の帰路に来日した、太平洋戦史研究家D・K氏の10日間のスケジュールを作った。

3月31日から帰米する4月9日まで、硬軟緩急合わせて考えた。

幸い氏の来日のことを告げると、皆さん二つ返事で面談を了承して頂き有り難いことであった。

移動手段、時間の整合、宿泊ホテルの予約なども加わり、配慮が必要であったが、在職中に得たことが自然に発揮されたものだった。

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出来上がったスケジュール表を氏に渡してお終いでは無く、
「ケア」が必要で、これまで大阪~京都~焼津~静岡~
品川~九段下~飯田橋~横浜~厚木を巡った。
面談者は、15名。
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今日(4月6日)、関空から帰国するホームタウンになる
京都のホテルにチェックイン出来、ヤレヤレの感がある。
明日は、完全休養日。
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帰国前日の土曜日は、11時にホテルロビーで合流し、
軟派なことでもしようかと考えているところだ。
ケアは、9日13時発「はるか29号」の見送りまで続くが、
氏と小生の絆が深まり、人脈が広がり、知識が増えて
大変有り難いことだと思っている。
*上の写真:D・K氏馴染みの「佳つ智」

硫黄島からの手紙・ 服部大尉の戦死 [硫黄島]

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太平洋戦史研究家のダニエルキングから硫黄島で取得された
手紙の判読依頼があったのは、7年も前のことだっただろうか。
手紙は、母から硫黄島で戦う大尉に宛てたものだと判った。
とある深夜、大尉の出身地を示す決定的な文言が判読出来た時、
体に電流のようなものが走ったのを覚えている。
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大尉は摺鉢山地区隊副官として、昭和20年2月22日午前2時、
5名の兵と共に夜襲を敢行、散華された。豪雨であったと云う。
米海兵隊の上陸から4日目のことで、海兵隊の記録には、
「障害が無くなり、摺鉢山山頂へ前進の日」とある。
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その後手紙は、識者の協力を得て、ほぼ全文が判読に至り、
所有者(米国人)から遺族へと返還された。
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昭和19年元旦
奈良県桜井市 等彌(とみ)神社に参拝された
服部大尉(右端・当時中尉・菩提寺は来迎寺)
今日2月22日は、服部大尉の命日 
朝、神棚に参拝の後、郵便局に参じて番号札を
取ったところ「2月22日・22番」とあり、
2と云う数字に何か不思議なものを感じた。
合掌
写真:(1枚目)ダニエル・キング氏
                                                 (白黒)服部家私家版 嗚呼硫黄島
                   (摺鉢山山頂から南海岸KYOTO PRESS

今日は、米軍が硫黄島に上陸した日である。 [硫黄島]

昭和20年2月19日

今を遡ること72年前の今日、米海兵隊が硫黄島への上陸作戦を開始した

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写真右上に、
Feb 19,1945 D Day 1st wave to Green Beach
とあって、作戦開始の日第一陣がグリーンビーチを目指した
様子が写っている。
海兵隊は、硫黄島の上陸地点を緑・赤・黄・青に分けて
担当の師団が上陸した。
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< 摺鉢山山頂より>
グリーンビーチは、写真右下に設定されていて、
第5海兵師団の第28海兵連隊が上陸し、摺鉢山を目指した。
上陸時刻は、午前9時と云われている。
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<南海岸>
この浜が海兵隊員と上陸物資で溢れる頃、日本軍は攻撃を
開始した。攻撃開始命令は、ラッパによるものだったと云う。
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<日本軍のトーチカ内から南海岸方面を望む>
72年前は、海岸が見渡せたのだが島の隆起で、視界が
閉ざされてしまっている。
写真下は、日本軍の機関銃だが、火炎放射を受けたせいか、
銃身がおじぎをしているのが判る。
トーチカ内は、開口部から吹き込んだ火炎で黒く、空気が
淀み、同胞の無念さが伝わってくる。
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米軍の撃破された車両の数は、270両とされている。
太平洋の戦いで、米軍の死傷者数が日本軍を上回ったのが
唯一硫黄島戦で、19日だけで99人の精神障害の戦闘不能者を
出した。日本軍の攻撃の峻烈さが判る数字だ。
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飢えと渇きに苦しんだ日本軍に比して、米軍は補給が万全。
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戦いが落ち着く頃、物資の補給などは、B29で行われた。
物資を機体から降ろすのはフォークリフトを利用して行われて
何もかも人力対応の日本軍とは、極めて対照的であった。
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<島の名所になった栗林中将が指揮を執った司令部壕>
「日本が世界からなめられずに済んでいるのは、
硫黄島の戦いがあるからだと」語った経済人がいる。
同感である。
毎朝僕は、神棚に祀った硫黄島の砂の前に水を捧げ、この極限の
戦いで散華された方々を偲んでいる。
*写真(白黒):第5海兵師団 戦場カメラマン Richard Stotz.
                              (カラー):KYOTO PRESS  2009/3/18.

佳つ智ちゃんが手にするダンさんの本。 [硫黄島]

来日中の太平洋戦史研究家ダニエル・キング氏から「 A TOMB CALLED IWO JIMA(墓と呼ばれた硫黄島)を舞妓ちゃんから持って貰い、販促用写真を撮りたいのだが」と申し出があったので、早速実行した。

場所は、小田本のバー。2時間佳つ智ちゃんにモデルをお願いした。

身銭を切ってお邪魔している店だから、誰にも遠慮はいらない。

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ハイ、撮りまっせぇ~。
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エエやないかぁ。
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妹分の佳つ江ちゃんも、ニッコリ。
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「お疲れさんどした。まぁ一杯お飲みやす」
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この企画を無理強いしたのは僕で、Farewell dinner
ラストを飾るもので、同席していた老妻は、2年振りとなる
ダンさんと、彼が移り住んだテキサスの話しに盛り上がった。
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「ダンさんまたねぇ~」と云われる程、祇園に馴染みの
米国人はいないのではあるまいか。氏の祇園歴は、
佳つ智ちゃんの店出し(デビュー)とほぼ重なる6年。
「A TOMB CALLED IWO JIMA」の販促に彼女たちの
写真がどう活きるか、楽しみなことではある。

光人社NF文庫「硫黄島決戦」新装版のご案内 [硫黄島]

conv0002.jpg過日、源田の剣の著者である髙木晃治氏から標記について、協力して欲しい旨連絡があった。

新装版としての出版になるので、現地で撮影した写真の何枚かを潮書房光人社に提供して上げて欲しいとのこと。

髙木さんからの依頼かつ硫黄島に関連したことであれば、断る理由は全く無いので、20数枚をCDに焼いて編集部宛て送った。

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で、今日編集部から届いた「新装版」がこれ。
この文庫に小生が撮影した写真が採用され、光栄の至り。
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巻頭の4枚が小生が撮影したもの。
摺鉢山上空と摺鉢山山頂から写したもの2枚と下の2枚。
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「歴史的上陸地点南海岸に立つ米海兵隊隊員。
現代を生きる彼らには、言葉もない」(写真上)は、
小生が付けたキャプションで、そのまま採用して頂いた。
名誉なことである。
硫黄島戦を知るには、極めて良い本であるから
多くの方に読んで欲しいと思っている。
2015.06.16印刷 光人社NF文庫(潮書房光人社)
780円+税:間もなく出版
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天皇皇后両陛下 ペリリュー島慰霊 [硫黄島]

conv0001.jpg去る8日~9日、天皇皇后両陛下は、パラオ・ペリリュー島に慰霊の旅をなされた。

殆どの方々には、ペリリュー島の名前は馴染みの無いものであったに違いない。

太平洋戦争に於ける、米軍による島々の奪取作戦は峻烈を極めた。南北10km・東西3kmのペリリュー島でも日本軍守備隊約1万人が玉砕した。

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この島での戦いは、後に続く硫黄島と沖縄に於ける戦いに
大きな影響を与えたことでも知られている。
かつてスカパー!で放送された太平洋の島々の戦いを描いた
全10話の「ザ・パシフィック」でも前・中・後編の3話が
ペリリューとなっていることでもその戦いの凄さが想像できる。
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慰霊の旅は、天皇皇后両陛下が自らに課したものであるという。
この島で、散らざるを得なかった方々は、戦後70年の節目にして
やっと救われたのではなかろうかと思う。本土への決別電報
サクラ、サクラ」への返信が、天皇皇后両陛下の手で、やっと
お届けして頂いた気がしている。合掌。

B29 ノーズアート WADDY'S WAGON の写真を見て... [硫黄島]

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B29の機体に描かれた 「WADDY'S WAGON」 と、その下で

 絵と同じポーズをとる男たちを見て、思わず笑ってしまった。

同時に撮影された場所が、B29爆撃機の出撃基地である

マリアナのサイパン基地であり、男たちが曳き、乗っているのが

大日本帝國軍の大八車と推測され、哀れに思えて泣けてきた。

超空の要塞B29と大八車。もう、大東亜戦争の結果は歴然で、

一刻も早い講和を目指すべきではなかったのか。

一枚の写真が雄弁に物語っている。


東京大空襲・硫黄島~東京間は、1,250km [硫黄島]

conv0001.jpg一晩で10万人が犠牲となった昭和20年3月10日の東京大空襲から70年。

空襲の主役B-29が出撃したサイパンと東京間は、片道2,350kmで、往復4,700kmの飛行時間は、9時間になった。

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昭和20年3月、硫黄島の滑走路が使用可能となると、
P-51が護衛戦闘機として随伴可能となった。米軍が
大きな犠牲を払ってまでも硫黄島を取りたかった理由だ。
反対に帝國防空隊は、連日100機以上の戦闘機も相手に
しなければならなくなり、苦戦を強いられるようになる。
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東京大空襲の帰路、傷ついたB-29が硫黄島に不時着している。
硫黄島では、地上戦が続いており、滑走路の下には我が同胞が潜んでいた。
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B-29は、終戦までに2,251機が硫黄島に不時着して2万5千人の
搭乗員が降り立つ。そして、マリアナ諸島基地には、985機の
    B-29が出撃体制にあった。超空の要塞と云われた爆撃機がである。

硫黄島の写真・70年前と6年前を比べる [硫黄島]

70年前硫黄島で撮られた写真と6年前、現地で僕が写した写真を比べてみた。

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①-a:昭和20年(1945年)2月19日硫黄島へ上陸開始
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①-b:運命の摺鉢山と南海岸
チャーター機はこの後、左ターンで島を一周する。
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②-a:上陸開始直後。摺鉢山からの射撃は始まっていない
海岸が海兵隊員で一杯になるまで日本軍は発砲しないのだ。
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②-b:上の写真、南海岸の②-aとほぼ同じ場所
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②-c:②-aを駆け上がったところにある通称[水際トーチカ]
上陸作戦直後に撃破されたものと思われる。内部が見えている。
近づく米兵を見て、発砲命令前に射撃したのではないのか。
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③-a:2月23日、摺鉢山山頂へ。手にするのは星条旗
意外なことに火炎放射兵が先頭を進んでいる。
山頂と麓を結ぶ電話線も曳いているはずだ。
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③-b:上陸4日め。摺鉢山に翻った星条旗(1945/2/23)
戦闘はまだまだ終わらない。この足下に我が同胞が潜んでいる。
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③-c:上の写真とほぼ同じ場所から南海岸を望む
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③-d:星条旗が翻った場所には米軍の慰霊碑

硫黄島の戦いから70年 硫黄島に思う [硫黄島]

2月19日は、あの硫黄島の上陸戦が開始された日だ。

conv0007.jpg平成21年3月18日、僕は日米合同慰霊祭の出席者の一人として硫黄島に立つことが出来たのだが、チャーター機のタラップから降り立つ第一歩が躊躇われたのを鮮やかに思い起こすことが出来る。

滑走路の下に眠る幾多の我が同胞の上を踏むことになる躊躇であった。

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摺鉢山の向こうにアメリカ海兵隊の上陸場所になった南海岸
臨む。静寂に包まれ、波頭が白く海岸線を引いている。
僕は、多くの方々と山頂にあったのだが、サイレントムービー
見ているような感じだったことを思い出している。
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 南海岸に程近い、海に向かって銃眼が開いたトーチカは、
19日最初の攻撃目標になったことは、想像に難くない。
            砲撃と銃撃、そして火炎放射で、鉄筋がむき出しになって
            しまい、火焔の跡が今も残っていた。
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爆風と火炎で、銃身がお辞儀をしてしまった赤錆た機関銃が
そこにあり、ここに居た方々の確実な死の証拠があった。
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[擱座したM4シャーマン戦車]
キャタピラー覆いを現地で急造しなければならない程の激戦であった。
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[摺鉢山から降ってきた砲弾で、阿鼻叫喚となった南海岸]
米軍の死者は、6,821名・戦傷者は、21,865名
米軍にとって、第二次大戦中最も人的損害を被った戦いが
この硫黄島であり、海兵隊員の「メッカ」となっている。
現代を生きる若い海兵隊員は、運命の浜に立ち言葉も無い。
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世田谷区とほぼ同じ面積の中で、散華せる日本軍2万129名。 
捕虜1,023名。米軍の戦死傷者の数が日本の損害を上回った。
[日米が死力を尽くした硫黄島の砂]
毎朝、冷たい水をお供えして、僕は少しも硫黄島のことは忘れない。

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